今年も桜の季節を迎えた。昨年は早かったが、これが例年のように思う。子どもたちの入学式と桜の花、これからの子どもたちの未来に向かって祝っているようである。毎年違いながらも確実に季節は巡り、春を迎える。全ての命は、大自然の営みの中で生かされ、そして老いを迎え、その命は次の世代に引き継がれていく。それは、平凡に思える日常の中で繰り返される。
しかし、それは突然失われる。大災害、家族の死、不当な政治判断、戦争等々は、それまでの当たり前の日常を奪い一変させる。その中で、自分の生きていることへの危うさと生かされている現実を実感するとき、人は優しさとともに生きる意味を知る。
福島県は、2011.3.11の震災・原発事故の経験から、他の地域での災害に敏感に反応する傾向が強くなっているように感じている。ルワンダの内戦の中で難民生活を体験し福島に移り住み、ルワンダに子どもたちのための学校建設、運営を支援してきたマリールイズさん、「ウクライナのニュースを見るたびに心が痛む。戦争に良い戦争などない。難民キャンプでの記憶が蘇りじっとしてはいられない。」と難民支援のための募金活動を呼びかけ街頭に立つ。
生活の場が戦場になる悲劇が、戦闘の収束に向かいつつある中で明らかになりつつある。市民と戦闘員の区別など生活の場が戦場になった中では意味がない。侵入したロシア兵にとっては、住民の視線は敵意に満ちたものとなり、死に直面した緊張状態の中での殺戮を生み、それはさらなる憎しみの中での報復を生み、悲劇の連鎖を拡大していく。ルワンダの内戦の悲劇、日本の太平洋戦争の悲劇、ベトナム戦争の悲劇等々、戦場になった地域の悲劇は数知れない。
歴史の教訓から悲劇を繰り返さないために創られたはずの国連も、その中軸をなすロシア、中国、アメリカ、イギリス、フランスの対立の中では無力に見える。戦場での悲劇は新たな憎しみの連鎖を生み、収束後の社会に大きな影を落としていく。花を愛でられる日常の大切さを思わずにはいられない。