5月に入ったばかりなのに夏日が続く。福島県庁・銀行窓口などでは、2日からクールビズが始まった。桜が終わったと思っているともう夏の日差しである。ゴールデンウイークと呼ばれてる5月の大型連休、福島から東京、京都、岡山へ、日本地図を眺めると、日本列島の半分以上の距離を移動したことになる。新幹線は、日本中の時間距離を狭めている。気候の話になると、こちらよりは東北は涼しいでしょうという前提で、暑い話になる。しかし、日本中が暑い。天気の変化も時間距離を狭めているようである。
災害のリスク意識は、距離によって変わる。災害が起きている場所に住み、物理的に、精神的に被害を受けた人たち、それは、災害当事者となる。災害地に合っても災害当事者とならなかった人々、その周辺に広がる災害地から遠く離れた地に住む人々、災害地から遠ざかるに従ってリスク意識は大きく変わる。災害を直接受けなかったと思う人々は、外部からの災害支援者という立場で向かい合うこととなる。
建物が壊れ、道も分断され、食べるものが手に入らない。物理的な被害、生命の危険を回避、救出するための緊急支援、それは3日間が勝負の時間との戦いと言われる。その被害を最小限に食い止めるためには、内部の当事者からの情報を外部が正確にキャッチし、全国ネットで時間距離を狭めた災害支援体制をどう構築できるかにかかっている。
東日本大震災でも問題となった、緊急時の対応を行政が独占し民間との連携がうまくできなかったと言う教訓が、熊本の大地震でもあまり生かされていないように思える。全国の自冶体から支援の職員を被災地に送りながら地元に戻ってその経験が生かされていないのは大変残念なことに思う。
さらに災害がもたらす精神的被害となると益々わかりにくい。それは、一人一人が異なる。その被災地で家が潰れ、余震が続く、地震に対する恐怖がトラウマとなる。東北の災害を経験した人々は、「他人事とは思えない」と口を揃えていう。そこでは、被災者としての経験から生まれる共感を憶えている。精神的被害は、一人一人の個人に災害を通して経験した恐怖がどのように残り生活に障がいをもたらすかにある。それは、一人一人に寄り添い、長期的な周囲の支えの中で癒されていくしかない課題となる。
福島の原発事故では、被害の当事者と考える人々と被害の当事者ではないと考える人々が複雑に混在し、家族内でも判断基準がかみ合わない。宝くじを買った人は、僅かな確率でも自分の問題となるが、購入しない人には、ありえないような確率に期待する無駄な行動としか映らない。当事者意識の有無が判断と行動を大きく左右する。日本全国の人々が、災害における当事者意識に共感し、時間距離を狭めていくことから新たな展開は生まれてくる。助け合いの連鎖が人を救い育てていく、災害における当事者意識に共感できる、そんな社会であることを信じたい。