あけましておめでとうございます。
今年は、穏やかな年明けの始まりでした。大晦日のゆく年くる年の除夜の鐘、中継地にはどこも雪がなく、孫を連れて近くの神社に元朝参りへ。何十年ぶりかな?新鮮な気分になる。
今年の1年に思いを巡らすと、震災から丸6年が過ぎ、4月には、原発事故の避難区域のほとんどの地域が避難解除となる。福島市内にも多くの仮設住宅があり、今後の生活に結論を迫られる。新築住宅の多くが、ここを定住地と定めた人たちのものとなっている。 県外避難者は、全国に散らばり、その事情は個々に異なり多くの問題を抱えている。6年という時間は、多くの課題を解決してくれると同時に新たな課題を生み出す。震災時に生まれた子どもも小学校に入学するだけの期間である。当時の6年生は大学受験、その生活環境は無条件に子どもたちの定住地となっている。
避難地でのいじめが各地で問題となっている。なぜいじめの対象になるのか、本人にとっては不条理な理由である。無知と不安は、人を差別し排除する。無理解によって、事故直後は、各地で避難者は災害を地域に持ち込むばい菌的存在と捉えられ、福島ナンバーの車が傷つけられたり、隣への駐車が敬遠された。被害の当事者と安全な地域の居住者、それは障がい者差別の構図と同じである。こどものいじめは、反面では周囲の大人の価値観の反映となる。貧乏人と金持ち、社会的弱者と権力者、力による強制は相手の人格を否定する。地域での理解度が支援の質の違いを生み出し、大きな地域間格差を生み出している。 こどもは周囲の人間関係の中で守られ成長し、成長した大人は、子どものころに体験した人間関係を前提に子育てを始める。核家族化した家族は、子育てを終わり、老夫婦の高齢者世帯となる。高齢者は家族内に人間関係の役割を失う。
社会の連続性を失った個人、家族のためにせっせと働く親の背を見て育つ子ども、しかし、うちはどう見ても貧乏、金持ちの友達と比較すると悔しい、俺もお金さえあればと、お金社会の価値観がしみこんでいく。お金さえあれば生きていける。しかし、なくなったら?の不安との同居暮らし。結婚なんて不安で…。
社会は人間関係の中で繋がり、助け合い支え合って生きている。地域は、さまざまな人々を取り込み共に生きる生活の場でなければならない。人間関係は、相互の理解と共感を前提に創られていく。自分の子どもは一番かわいい、それが夫婦の絆となり、孫はかわいい、じいちゃんは優しい、そこに3世代の家族がある。子どもは子どもの世界を、大人は働く場を持ち、老人は地域の役割を担い共生する地域社会をつくる。
新しい年の初めに、当たり前の暮らしの中に平和な社会の理想を夢見る。個々人が社会との連続性を理解し、お互いが現代社会を生き抜くための仲間としての理解と共感を持てれば、社会からいじめはなくなる。