蝉の声も聞こえ始め、我が家のキュウリもなり始めた。今年は雨の日も多く梅雨を感じていたが夏は確実にやってくる。コロナ、コロナで今年も半年が過ぎてしまった。
梅雨明け間際には豪雨による災害が日本を襲う。突然の豪雨、雷とともに叩きつけるような、バケツをひっくり返したような、ワイパーが効かない視界を失う水のカーテン、豪雨の表現は水のもたらす災害への記憶とともに蘇る。防災情報が緊急アラートとともになり始める。朝には雨もやんで穏やかな朝を迎えた。
いつものように朝刊に目をやると、一面に大見出しで「熊本南部豪雨、球磨川氾濫」(7月5日朝刊)が飛び込んでくる。昨夜は福島も豪雨で雨漏りを心配しながら寝たが、人ごとではない。集中豪雨の凄まじさ、濁流が堤防を越えてまちを呑み込んでいく、水のもたらす自然災害。今回も特別養護老人ホームが犠牲となった。
犠牲者の表現が「1人死亡15人心肺停止」と書かれている。死亡と心肺停止とはどう違うのか、16人が亡くなったと言うことではないのか。何気ない表現の中にも医療制度の陰が見え隠れする。心肺停止していても医師が死亡を確認しないと死亡とはならない。災害時の緊急事態においても平常時の手続が要求される。平常時の対応ができなくなるから緊急事態であるはずが、その現場の現状からの判断ができず対応が遅れ被害を大きくしてしまう。
コロナへの対応も、いまだに帰国者・接触者相談センターが中心となっている。外国から入ってくる感染症を水際で抑えるために整備された制度が、国内に広がり一般の風邪と区別がつかなくなってしまった現在もそのまま続いている。緊急事態宣言を出しても医療現場の制度は平常時のままのように見える。
自然災害からは逃げられないが、人間社会が作り出してきた制度が間違うと大きな人災をもたらす。氾濫記録のある河川敷への開発許可、緊急事態に対応できない平常時の法律、人間社会の判断力が試されているのかもしれない。
現場の状況を迅速に把握し、現場からの判断を優先する。災害地を中心とする同周円を描き支援の優先順位を判断しながら周囲からの支援を重ねていく。すべては、災害を他人事とせず、自分ができること、相手がおかれている状況に想いを巡らすこと、そこから助け合いは始まる。制度は人の作った道具であるから、使いやすい道具として血の通った制度を取り戻さなければならない。