10月1日の朝刊は、仙台高裁の原発訴訟判決の記事が一面を飾った。その記事は、東京電力福島第一原発事故被災者約3,830人が国と東電に慰謝料や居住地の放射線量低減を求めた生業(なにわい)訴訟の判決が、30日に仙台高裁で出され、被災者の主張が認められたことを報じた。国の責任を東電と同等に認めるもので「東電を規制する立場の国が役割を果たさなかった」と国の責任を厳しく断定し、「原発の設置・運営は、原子力の利用の一環として国のエネルギー政策に深く関わり、国が推進政策を採用した。国が自らの責任で原発の設置を許可した。国の立場が二次的。補完的であるとして、責任の範囲を損害の一部に限定することは相当でない。」とした。
私たち被災地に住む住民にとって、原発事故の責任が国と東電にあることは、当然のことと考えてきた。その当然と考えることを訴え、この判決を得るまでに10年を要している。この判決に、国と東電は「内容を精査し対応を検討していく。」としていることを見ると最高裁まで持ち込むことになると思われる。上告されると結審まではまだ時間がかかることになる。被災者救済を求める裁判に10年間というのはあまりにも長すぎる。約3,830人という曖昧な表現の裏には、すでに判決を見ることもなく亡くなられた人が92人もいるということである。災害において、被災者救済を放棄し、原因究明を先行させるのでは本末転倒である。被災者救済を優先し、救済を遅らせてはならない。再発防止のためには、原因究明と責任の所在を明確にしていくことが大切になる。しかし、原発の推進は、国策として推進してきた。この原発が起こした災害であることを考えれば、原因の因果関係を問う前に、国が自ら国の責任を認め、率先して被災者救済に邁進し、再発防止への国の姿勢を明確に示してことが必要だったのではなかろうか。
自然災害が頻発し、洪水等により多くの人たちが被災している。その多くは、河川敷や谷間等の乱開発に起因している。開発業者が悪いのか、開発許可、建築許可を出している国等の責任か、どちらか一方の責任にするのは酷であろうが、開発を進めた当事者として協力し合い、再発防止対策を含めた被災者救済が優先しなければならない。国は、国民の基本的人権として生命を守る義務がある。今後の裁判への国の対応を見守りたい。