3.11が今年も巡ってくる。原発事故から11年の月日が流れた。11年の時間を経て、やっと東京電力に損害賠償を求めた集団訴訟への最高裁判断が示された。福島、群馬、千葉の三件で高裁が東電の損害賠償を認め、最高裁が東電の上告を却下したことで、東電の賠償責任が確定した。国の責任については、最高裁の統一判断はまだ出ていないが、原発再稼働の流れが広がる中で、再稼働の承認、廃炉や汚染水処理の問題等々、国の責任は重い。
ロシア軍によるウクライナ侵攻が2月24日開始され、10日が経過し戦況は悪化の一途をたどっている。近代兵器で装備されたロシア軍が侵入し戦場と化した都市は、一瞬にして瓦礫の山と化していく。ウクライナ最大規模のザポロジェ原発、運転中の原子炉がある中で砲撃を受けたという。福島原発の爆発後の崩れ落ちた原子炉の記憶が頭をよぎる。爆発事故には至らないと思うが、戦争では何が起きるかわからない。近代兵器は、過去の戦争では考えられないほどの破壊力と人的被害をもたらす。戦場となった地域は壊滅的被害を受ける。国民を守るべき国家が、国民を犠牲にして行う戦争に正義はない。
北京パラリンピックが4日から13日まで開幕し、「共生」を理念に掲げている。ロシアとベラルーシを排除しての戦時下での開幕となった。戦争への政治判断がスポーツの世界に投影された大会となった。個人の努力と成果を競い合い、お互いを高めていくことこそスポーツの意義ではないかと思うが、国威を高めるための場と化しているように見える。 「共生」が耳さわりの良い流行語で終わることのないようにしたいものである。「人は一人では生きられない。助け合い、支え合って生きていかなければ、人類に未来はない。」これを生活原理とすることで「共生原理」となる。これを拡大すると「共生社会」となる。自然界の中で生き残るために、人間は社会生活を営み、助け合うために国を創った。しかし、この「人間」の範疇が暗黙の了解事項となっていくことで、人間どうしの差別を生む。人間=ロシア人、人間=ウクライナ人、人間=白人、人間=男、様々な範疇で人間を括ると、それ以外は人間であっても人間でなくなることとなり、差別と排除を生みこれが日常化する。
強大な破壊力を蓄えた国家間の武力による前面衝突に勝者はない。お互いが生き残るための「共生」、一人一人の命を守るための「共生」、それは人類が求める永遠の課題なのかもしれない。