日の出が日に日に遅くなる。緑の木々も赤や黄色に染まっていく。色彩の綺麗さとは裏腹に侘しさが込み上げてくる。人は年とともに感傷的になっていくのかもしれない。
急激に進められていくデジタル社会の中で思う、「選択する自由」と「選択される不自由」。若い時代には、「人間は自由だ、職業選択の自由、結婚も自由、欲しいものは何でも自由に手に入る。必要な情報は即座に手に入る。」自分を選択の主体として「選択の自由」が強調されていたように思う。しかし、そこには意識するかしないかにかかわらず、隠された多くの前提がある。
10月1日の朝刊は「9月30日ロシアのプーチン大統領がウクライナで制圧した東南部4州の併合を宣言した。」「4州では9月23~27日にロシア編入を求める住民投票が行われ、親ロ派はいずれも87~99%の高率で支持されたと主張。プーチン氏は29日に南部2州の独立を承認。編合への法的条件を整えた。」と報じている。これにより、ウクライナの戦争が新たな段階を向かえた。
併合への法的条件には、ⅰ独立国間で、ⅱ国民の併合を求める意思を明確にする国民投票が行われ、ⅲ併合を求める国からの求めを受入国が承諾することで成立する、という3段階を踏んでいることが求められる。この手続きをロシアは1週間で終えたことになる。 国と国民、戦争と独立、国民投票、不可解な現実が横たわる。民主的に混乱を回避しながら国民の総意をまとめていく手法として成立してきた国民投票、これは、争点が明確で選択の自由を保障されている国民によって初めて可能となる。今回の国民投票の信憑性を判断する立場にはないが、1週間で形式を整えられた背景には周到な事前準備があったものと推測される。
個人の選択の自由によって選択された事実は、社会的に集積されることで、社会的集団の意思を形成し、他者の意思を拘束することとなる。親ロ派の個人の選択が社会的集団の意思として独立を求めることで、親ロ派以外の他者を排除していくこととなる。少数派となった国民は、選択権を持たない受動的な存在となり、選択される不自由を味わうこととなる。
戦争という悲劇を繰り返さないために考えられてきた「国民投票」の手法は、国民の総意で判断した事実に対してはみんなが従う、しかし、同時に反対意見にも配慮し排除のための手段としてはならないということが前提になければならない。個人の「選択の自由」が他者に「選択される不自由」を多数決の横暴として押しつけてはならない。