今年も3月11日が巡ってくる。12年が過ぎ13回目の春を迎える。震災と原発事故後に生まれた子どもたちも中学生となる。子どもたちにとっては、すでに学校や親たちが教える知識の一部となりつつある。震災を体験した人の記憶も、その時遭遇していた状況で一人一人異なる。
当日、車で移動中に津波に遭い、命からがら逃げのびることができ九死に一命を落とさずにすんだ体験を聴く機会があった。震災後の活動の中でたびたび合っていた仲間の一人であるが、12年が過ぎてやっと人前で話すことができたという。あまりにも悲惨な状況を経験すると、それを口に出そうとするだけで記憶が蘇り言葉を失ってしまう。その心の整理がつくまでに彼は10年間の時間を要している。悲惨な状況を経験した記憶がトラウマとなり、関連する情報に反応しパニックを起こす人も少なくない。
思えば、私の親たちは戦争体験者で、父は二等兵で中国に送られ、戦地で大変な思いをしながらも帰ってこれたと子どものころ聞かされた記憶がある。しかし、その中で経験した大変さの中身については聞いた記憶がない。子どものため興味がなかったのか、あまりの悲惨さに話したくなかったのか、今となっては聞くすべはないが、戦後世代の我々が生まれる数年前の事実であることに間違いはない。現代に直結する明治以降の近代史を子どものころ学校であまり教えらた記憶がない。大学以降で近代・現代の政治経済を学び、親たちの時代を客観的に理解できたように思う。
震災と原発事故の事実を後生に再び同じ悲劇を繰り返さないための教訓としていくことができるかどうかは、震災を体験した記憶をつなぎ合わせ、命を大切にし助け合っていくことを前提に、事実の多面的で客観的な整理が求められる。そして、その知識を子どもたちに正確に伝えていくことで悲劇は教訓となる。生活の場である地域の再生は、生活の場において子どもたちの笑い声が耐えない姿を取り戻すことであり、住民同士の助け合いで生活が持続できる社会である。12年目の春を迎え、改めて命を原点に置いた復興の姿を考えて行かなければならない。