民友新聞の特集記事「震災10年証言あの時」が昨年末から掲載されている。元南相馬市長であった桜井氏の震災直後の生々しい現場での対応の様子から、順を追って避難地域となった首長への取材記事、当時の県知事、大臣等への取材記事と今も続いている。震災10年となる今、当時には明かされなかった様々な判断の舞台裏が明らかにされ大変興味深い。10年という時間は、当時の責任者を第一線から引退させ、証言による現場への影響もほとんどない状態を作り出している。
今だから言える当時の政策決定に関わった当事者の証言は、原発事故というまだ収束を見ない災害への対策を考えていく上では重要な意味をもつ。盲人が象に触ると、触れた部分を象として表現する。この過程では触れた場所の数だけ象の表現が生まれてくる。どれも間違いではないが、象という全体像は表現しきれない。しかし、個々の情報を統合することで全体像を知ることができる。重要な判断をしなければならない当事者となった人々の証言は、これからの判断への教訓に満ちていると同時に知らされなかった真実に恐怖する部分も多い。
2月4日の登場人物は玄葉光一郎元国家戦略担当相。当時の原発事故の最悪のシナリオをどう考え準備されていたかが語られている。「東京電力福島第1原発事故の最悪のシナリオを想定し、原発から半径50㌔の避難計画を準備していた。」という秘密計画があったことを明らかにした。奇跡的に最悪のシナリオは回避され、50㌔避難が実行されなかったおかげで、現在の福島市は残った。50㌔避難となるとほぼ福島市、郡山市等の福島県内主要地域は避難地域となり、首都圏と東北地域を結ぶ主要幹線道路も使用不能となる。避難民も100万人を超えるだろうことは想像に堅くない。記事の最後に「本県の存続はまさに紙一重だった。」と結んでいる。実行された場合を考えるとゾッとする話である。
一歩間違えば東日本が壊滅的状態になりかねなかったことを考えれば、原発への不安と恐怖は再び蘇る。停止している日本中に点在する原発、再稼働を始めている原発、汚染水のタンクも10年、設備は老朽化し自然劣化が進む。どんな設備でも事故は起きる。原発も例外ではなく完全なものはない。事故を想定し、最大限の対策をとり続けることでリスクは減少する。リスクを過小評価し、対策を取らないことによる人災と重なり事故を大きくする。
10年の時間を経て明かされる原発の教訓を、私たち一人一人が考え、未来へ繋げていきたいものである。