ひまわりの歴史
ひまわりの歴史

古代北アメリカ

「ひまわり」の原産地は北アメリカで、その歴史は紀元前1500年前までさかのぼります。
北アメリカの先住民にとってひまわりのたんぱく質や脂肪は栄養源に欠かせないものでした。ひまわりから油を搾ってボディペイントや薬に、茎の部分を住居の材料にしていたようです。
当時の人々とひまわりが衣食住に密接な関係にあったことがわかります。
インカ帝国

13~16世紀、現在の南米・ペルーやボリビア付近で栄えたインカ帝国では、ひまわりは「太陽神の化身」としてあがめられていました。花の彫刻が祭壇に飾られ、神殿に仕えるみこは、ひまわりをかたどった純金の冠を身に着けていたようです。
北米から南米のペルーにかけての地域では、現在でも野生のひまわりが自生しているようです。アメリカ・カンザス州では州花とされ、ペルーでは国花となっています。いまでも重要な意味を持つ花だと感じます。
ヨーロッパ

コロンブスがアメリカ大陸を発見した後、アメリカ大陸からヨーロッパへさまざまなものが持ち込まれました。ひまわりもその1つで、1500年代にスペイン人が伝えたといわれています。
当初は「インディアンの太陽の花」、「ペルーの黄金の花」とよばれていました。
17世紀になり、ようやくスペインからフランス、イギリス、ロシアへと広まっていきます。
スペイン南部・アンダルシア地方にあるひまわり畑は、有名な観光名所となっています。
スペインは日本に比べて暑さと乾燥が厳しく、見ごろは5月末~6月と早めの時期に訪れます。アンダルシア地方より暑さがやわらぐ北スペイン地方では、7月ごろでも見ることができます。
日 本

ひまわりはヨーロッパから中国、そして日本に入ってきました。
江戸時代の寛文年間(1661~1673)、図解辞典である『訓蒙図彙(さんもうずい)』に記されています。
ひまわりは「丈菊、俗に言ふてんがいくわ(天蓋花)、一名迎陽花(げいようくわ)」と紹介されています。
当時ひまわりを熱心に描いていた画家・酒井抱一(1761~1828)がいました。優美な色彩の風景画や美人画を多く残した画家で、やはりひまわりにひかれた画家の1人だったのでしょう。
食用としての歴史

ロシアのひまわり栽培
ロシアでは正教徒が多く、断食と食物品目の制限が行われる斎(ものいみ)の期間があり、多くの油脂食品が制限されていたのです。しかし、ひまわりは禁止食品に含まれることはなかったので、抜け道としてひまわりの油分を口にしました。このことから、食用としてのひまわりの価値が広く知られるようになりました。
19世紀に入ると8億平方メートルもの巨大なひまわり畑で栽培を開始。ロシアはひまわりの一大生産国へと発展します。
栄養学的に見ると、ひまわりの種はカロリーが高く、疲労回復に役立つビタミンやミネラルが豊富で、葉酸や鉄分、食物繊維なども含まれています。また、コレステロールが含まれていないといった特徴もあります。
おわりに

生命力を感じさせる黄色い花、ひまわりはまさに太陽の象徴として信仰されていました。実用的でありながら、畏敬の念を持たれる花。あまたの植物の中でも、そのような花はめったにないでしょう。
このような歴史があっていま、私たちは「ひまわりプロジェクト」につながっています。現在使用しているひまわりの種は「F1(ファースト・ファイナル・ジェネレーション)」といって、1代かぎりの雑種です。このタネを来る年まいても高オレイン酸のタネは採れないということです。
次回はタネについて野口勲・著『タネが危ない』からお伝えしていきます。


