師走。年の瀬を迎えての衆議院解散、総選挙。選挙カーの声もなくあまり選挙中とは思えないまちの静けさである。忘年会の季節であるはずなのに静かに思える。選挙になると飲食店は不景気になるというが。
衆議院の解散権は、総理大臣の専権事項となっている。総理大臣は、国会議員の選挙によって選任される。その総理大臣が国会議員を解任し、国民に国会議員の選びなおしを求めている。総理大臣とは、行政府の頂点にあり政策の執行責任者の立場にある。国会は、立法府であり、行政府の政策のための意思決定を行う場であると思っている。立法府は国民の代表であり、行政府の暴走を抑える立場にある。しかし、現状の国会議員は行政府のもとで操り人形となってしまっているのではないか。数の論理で集散分裂を繰り返す政党、社会を憂い命を賭けた主張が感じられない。一人一人の意見を聞くとすばらしい人格者も多いが、それが数の論理でかき消されてしまう。政党が、予算を握り利権を操る行政府のもとに、その分けまいにあやかろうと群がる集団のように見えてくる。
社会状況は刻々と変化していく。その中で重要な政策決定を行うため、国民の意思を直接確認する作業は重要で民主主義の基本であることは確かであるが、今回の衆議院解散がそのため機能を果たすためのものとは思えない。これからの方向性を決定する重要な選挙であるにもかかわらず政策論争がなく、議席をめぐる数の論理に終始している。関心のなさを国民の責任のようにして議席の正当性を主張が、投票率が50%以下、投票格差が5倍以上という現状、これらを国民の多くが政治不信であることの表れとなぜ考えないのか不思議である。景気が良くなり生活が安定することを望まない国民はいない。そのための方法としての政策を抽象的な情緒的訴えに置き換えられ、政策の帰結は隠されだまされ続けていることへの無言の抵抗と考えると妙に納得がいく。
議院内閣制の持つ立法府と行政府の癒着と言う潜在的課題も含め、政策論議を深めていくことが国民一人一人の課題として求められている。私たち一人一人が国会議員の質を決めているのは事実であり、今求められている選挙という機会を通して真の民主主義の姿を考えていく機会として行きたいものである。